映画「やさしくキスをして」
題名からするとラブストーリーっぽいですが、ケン・ローチがそれだけで終わるわけもなく、すごく社会派で考えさせられる映画でした(正月なのに。。。)。
カトリックとイスラムという、2つの宗教、白人とパキスタン系という、2つの人種(民族)、こうした「区分」によって分けられた一組の男女の恋人同士が、古いしきたりや、家族・コミュニティの違いなどといった障害にぶつかりつつも、関係を続けていく、という物語。ラストは不安ながらも「愛」を誓い合うという、一応のハッピーエンド風にはなってはいるが、前途の困難さを予感させるに充分なものがあります。
特に考えさせられたのが、パキスタン系の家族が、移民先のイギリス社会において「生き残るため」に仲間同士で集まってコミュニティを作り、一種排外的な態度を見せざるを得ない、という現実。それは、マイノリティー同士で排外的で仲間内だけの固いサポートネットワークを形成することで、いざというときのセイフティーネットをなし、サポート資源を提供してくれないばかりか時として敵対的な受け入れ先の社会の中で生き抜いていくという一種の「生活の知恵」なのです。従って、マイノリティの側こそが「差別的」というのは、少なくとも心理学的なレベルではあてはまらない。個人の頭の中では差別はないとしても、そうした社会システムで、自らの出身コミュニティから離脱することは「破滅」を意味するから。
こういう現実を見ていると、何だか「平等主義規範を持っているか」とか「認知にバイアスがある」とかいう心理学的研究(特に社会的認知研究)の無力さを痛感してしまいます。「どうやって生き残るか?」を考えている人に対して、そんなのは子供だましみたいです。恐らく、そういうのはもっと幸せな人の考えることなのでしょう(そういう社会・領域で有効な議論)。こういう切実な現実に対して、心理学的な視点は何を付け加えることができるのか、少し真剣に考えたほうがよさそう(だからと言って、ヨーロッパで主流の社会的アイデンティティ理論とかが有効だとは全然思えなかった)。そうでなければ幸せな社会でまだましな暮らしをしている人で地道に研究するか?
などとクライ気持ちになってしまう映画でした(正月ナノニ・・・)。
#ちなみにヒッピー的な「愛こそすべて」というテーゼに対しても辛口の仕掛けが用意されていました。自由な個人同士の「愛」というのが、時として単なる「わがまま」でしかないこと、あるいは「失うものがない人」の勝手な議論であることなどが描写されていて、ケン・ローチのリアリズムとよく言いますが、すごいなぁと思いました(何か悲しい現実ですが)
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コメント
恐らく、「重箱の隅」的研究の側からのレシピは、それぞれが単独では問題の解決に直結しないが、個々のパーツにはなる、というものだろう。というか、心理学者は多くの場合、パーツであることに徹しているような気もする。逆にアクチュアルな問題に対してもっと野心(?)を持つべきなのかも。
投稿: 源チャ | 2009年1月 4日 (日) 10時42分